誰かのことがどうしても気になってしまい、
頭の中がその人のことでいっぱいになること、ありますよね。
(わたしも、しょっちゅうです)
「嫌い」と思っているはずなのに、
なぜか気がつけばその人の言動を思い出してしまう。
(そして思い出しては、イライラする…)
いま思い出したって意味はない…。
イライラしたってしょうがない…。
頭ではそんなこと百も承知で、
でもどうしても嫌いなあの人のことが
頭から離れないんですよね。
仏教では、この状態を「執着(しゅうじゃく)」と呼びます。
実は執着は、好きなものへのしがみつきだけでなく、
嫌いなものへのこだわりも含まれているのです。
きょうはそんな
「嫌いな人のことで頭がいっぱいになる」ときの対処法を、
ブッダの言葉とともに見ていきましょう。
まずは自分の感情を”そのまま”認める
仏教では、嫌悪感を「瞋恚(しんに)」と呼びます。
ちょっと難しい言葉ですね…。
怒りや憎しみは悪いものとされがちですが、
お釈迦さまは、
瞋恚=”嫌いという気持ち”を否定するのではなく、まずはその存在を見つめる
ことが大事であると説いています。
「アングリマーラ」という盗賊の話があります。
彼は多くの人を傷つけたのち、
お釈迦さまと出会い、
怒りの根にある恐怖と寂しさに気づきました。
その瞬間、彼は盗賊をやめ、
弟子として生きる道を選びます。
このエピソードは、
わたしたちが自分の怒りの奥にある
「本当の気持ち」を見つめるヒントになりますね。
怒りの下には悲しみや不安、理解されないつらさが隠れていることが多い
まずはあなたの中にある、
”本当の気持ち”を探してみませんか?
次の章では、
自分の本当の気持ちを探すための手順をご紹介します。
怒りの下にあるものを探す
紙とペンを用意して、次の質問を書き出してみましょう。
- その人のどんな言葉・行動が嫌だった?
- それによって、わたしはどんな気持ちになった?
- その気持ちの奥には、どんな願いがある?
例えば…
理不尽に怒られて腹が立った
→傷ついた
→誤解されたのが嫌だった
→認められたかった(←これが”本当の気持ち”)
こうして書き出すと、
”嫌い”という感情の奥に
- わかってほしい
- 認められたい
- 誤解されたくない
- 大切にされたい
という願いがあることに気がつきますね。
仏教ではこれを「渇愛(かつあい)」と呼びます。
愛されたい、認められたいという人間の本能的な欲求です。
渇愛そのものは悪ではありませんが、
気づかずにいると苦しみを生むとお釈迦さまは説いています。
”縁起”の視点を持つ
お釈迦さまの教えの中でも特に有名なのが「縁起」です。
すべての出来事や人間関係は、
さまざまな条件が重なり合って生じています。
つまり嫌いな人も決して偶然ではなく
何らかの学びをもたらす存在として目の前に現れていると考えられます。
例えば、
仕事でいつも自分を否定する同僚がいるとしましょう。
想像するだけで本当に嫌な出来事ですが、
これを縁起の視点から見ると、
この人がいるから、わたしは自分の価値を再確認する練習ができている
この人がいるから、わたしは境界線の引き方を学べている
といった捉え方もできます。
覚えていてほしいのは、これは
嫌な相手を無理に好きになることではないということです。
むしろ、”心の距離”を上手に取るための第一歩です。
嫌いな人との”距離”をデザインしてみよう
仏教には「中道(ちゅうどう)」という言葉があります。
中道とは、0か100かと言った極端な考え方ではなく、
ちょうど良いバランスを保つ生き方のことです。
嫌いな人に対して、
「関係を断ち切る」か「我慢し続ける」か
の二択ではなく、適度な距離を保つ方法を探すのが中道的な考え方です。
- 必要以上に関わらない
- 会話を短く、具体的にする
- 信頼できる人に気持ちを共有する
一見すると「冷たい」と感じるかもしれませんが、
これは自分の心を守る大切な手段です。
嫌いな人は心を映す鏡
嫌いな人に振り回されるとき、
自分のエネルギーをその人に奪われているように感じますよね。
ですが仏教の視点から見ると、
相手はあなたの心を映す鏡でもあります。
怒りや嫌悪を通して、わたしは何を望んでいるのか?
何を恐れているのか?
そこに気づくことが、
苦しみから一歩抜け出すきっかけになりますよ。
最後に、お釈迦さまの言葉を紹介します。
怒りをもって怒りに報いれば、怒りはやむことがない
怒りをもって怒りを捨てれば、怒りはやむ
(ダンマパダ)
嫌いな人のことで頭がいっぱいになるときこそ、
怒りを手放す練習のチャンスです。
深呼吸をして、少しずつ心のスペースを取り戻していきましょう。


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