気遣いには終わりがない

~だからこそ、自分を大切にする勇気を~

ずっと気を遣っているのに、なぜか報われない

職場でも、家庭でも、友人関係でも――
「大丈夫かな?」「嫌な思いをさせていないかな?」と、
人の顔色をうかがいながら、つい気を遣ってしまう。

気づけば、誰よりも気を配り、誰よりも疲れているのは、自分。

でも、ふと思うのです。

「どうして私は、こんなに気を遣ってばかりなんだろう?」
「誰も気づいてくれないし、感謝もされないのに」

気遣いは美徳でもあり、呪縛にもなる

気遣いができる人は、心が繊細で、人の痛みに気づける優しさを持っています。
それは間違いなく、美徳であり、強さでもあります。

でも、ブッダはこんな言葉を残しています。

「水を汲んでも、器がなければこぼれてしまう」
―仏教説話より

他人の気持ちばかりを汲み続けて、
自分という器が空になってしまっては、本末転倒です。

気遣いが終わりのないものになってしまうのは、
「自分の気持ちを後回しにする習慣」が根づいてしまっているからかもしれません。

心理学で見る「気遣い疲れ」

心理学では、過剰な気遣いの傾向を「他者志向性」や「過剰適応」と呼びます。

特徴は、

  • 自分のニーズより、他人の気持ちを優先してしまう
  • 「嫌われたくない」「波風を立てたくない」気持ちが強い
  • 断れない、頼まれるとNOが言えない
  • 他人の感情に敏感すぎて、自分が疲れ果てる

こうした状態が続くと、心がすり減っていく感覚や、
「私は何のために生きているんだろう」と虚しさを抱えることにもつながります。

ブッダの言葉が教えてくれる「ちょうどよい距離」

ブッダは「中道(ちゅうどう)」という教えを大切にしていました。
中道とは、極端に走らず、偏らず、バランスを取ること

「愛するとは、相手と適切な距離を保つことだ」
―『スッタニパータ』

過度な気遣いは、相手を思うことではなく、
自分の不安を埋めるための行動になってしまうこともあります。

だからこそ、「人のため」と「自分のため」のバランスをとることが、
ほんとうの意味でのやさしさにつながるのです。

気遣いをやめるのではなく、「分けあう」ものにする

気遣いとは、相手とのあいだで生まれるものです。

一方的に与え続けるのではなく、
ときには相手に委ねたり、任せたり、
「私もあなたを信じているよ」という距離感をもつことが大切です。

「気づかれないやさしさもある。けれど、気づかれないまま消えてしまってはいけない」
―仏教の例話より

自分の気遣いが空気のように当たり前になってしまう前に、
自分の思いも言葉にして、相手と分かち合う努力が必要です。

自分を大切にする小さな練習

気遣いが習慣になっている人は、
「自分を後回しにすること」が当たり前になっています。

そんなあなたにおすすめの言葉の切り替え

つい言ってしまう言葉替えてみる言葉
「なんでもいいよ」「私は〇〇がいいかな」
「大丈夫です」「ちょっと疲れてるので、また今度」
「私がやっておくよ」「できることがあれば教えてね」

小さなひとつでも、自分を主語にした言葉を使ってみる。
それが、自分を大切にする第一歩です。

少しずつでも、日常生活でチャレンジしてみませんか?

気遣いにも、休息が必要

気遣いには終わりがありません。
どこまでも、もっと、もっとと続いていきます。

だからこそ、「今日はここまで」と決める勇気が必要なのです。

ブッダはこう語っています。

「川の流れも、岩に当たれば止まる。その静けさの中にこそ、知恵が宿る」
―『ダンマパダ』

あなたがいつも気を配っていること、誰かはきっと見ていなくても、
そのやさしさは、あなた自身にまず向けられるべきものです。

終わりのない気遣いの中で、
「自分をいたわる」という選択肢を、どうか忘れないでくださいね。

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