誰かを「赦せない」と感じるとき、
その思いは心の奥で静かに火を灯し続けます。
怒りや悲しみは、時間が経ってもふとした瞬間に顔を出し、
心をざわつかせることがあります。
ブッダは、そんな状態をこう例えました。
怒りを抱く者は、毒を飲みながら相手の死を願うようなもの
つまり、赦せないという感情は、
あなた自身を一番苦しめてしまうものなのです。
この記事では赦すことの本当の意味と、
赦せるようになるためのヒントをお届けします。
「赦し」は相手のためではなく、自分のため
赦すというと、「相手の行為を受け入れること」と
あなたは思うかも知れません。
でも、仏教の教えではそうではありません。
赦しとはその出来事に縛られ続ける自分を、そっと解き放つこと
誰かを赦すというより、
「あなた自身の心を自由にしてあげる」という方向へと意識を向けていきます。
実は心理学でも、同じような考え方があります。
心理学では“赦し”は、相手を正当化することではなく、
「もうこの怒りに支配されない」とあなた自身が選ぶ行為
それは、自分の心のエネルギーを取り戻すための
とてもやさしい自己防衛なのです。
怒りや悲しみを、無理に消そうとしない
では赦しとは、具体的にどのような心の状態を言うのでしょうか。
「赦し」とは、感情を押し込めることでも、
「もう気にしない!」と無理に明るく振る舞うことでもありません。
ブッダはこう説いています。
怒りを制する者こそ、真の戦士である
『ダンマパダ』より
ここであなたにわかっていてほしいのは、
怒りを感じること自体は悪ではない、という大前提です。
なにかの拍子に怒りの感情がわいたとしても、
その感情を否定する必要はないんです。
ただ、怒りの感情のまま心が飲み込まれてしまうと、
心はますます苦しみの中に閉じ込められます。
そこで大切なのは、「怒っている自分」に気づくことです。
いま、わたしは怒っているな
悲しいな
悔しいな
認めてほしかったな
など、あなた自身の感情に名前をつけるように、
静かに見つめてあげるだけでも、心の温度は少しずつ下がっていくでしょう。
仏教でいう“気づき(サティ)”は、
感情を否定することではなく、「ただ見つめること」から始まります。
赦しへの第一歩も、そこから生まれるのです。
またこちらの記事では「怒り」についてさらに詳しく解説していますよ。
小さな赦しの練習
ブッダが弟子たちにすすめた実践のひとつに、
「慈しみ(メッタ)の瞑想」があります。
これは、心の中で相手に向かって
「あなたも幸せでありますように」とやさしく唱える練習です。
最初はとても難しいかもしれません。
心が拒否するかもしれません。
でも、あなた自身が「赦したい」と思えるようになったとき、
その言葉を少しずつ心に流してみてください。
それは相手のための祈りであると同時に、
あなた自身を癒すための祈りでもあります。
怒りや憎しみが薄れると、
その分だけ、心の中にやさしさが戻ってくるのです。
完ぺきに赦せなくてもいい
赦すことは、心の修行のようなもの。
一度でできるものではありません。
「どうしてもまだ許せない」という思いが残っていても、それでいいのです。
大切なのは、「赦せない」と苦しんでいるあなたが、
あなた自身を責めないこと。
赦しとは、自分をいたわるプロセスそのもの
少しずつ、
「怒りを手放しても大丈夫」と感じられる瞬間が来ます。
そのとき、あなたの心はきっと自由を取り戻しているでしょう。
おわりに
赦しは、相手のためではなく、
あなた自身の心に静けさを取り戻すための行為です。
「もういいよ」とつぶやくように、自分の中の苦しみをそっと手放す。
その瞬間から、心の風通しが少しずつよくなっていきます。
赦すことは、やさしさの形のひとつ
そしてそれは、
あなた自身を深く愛する行為でもあるのです。
あなたがあなた自身にOKを出せるようになり、
心が少しずつ軽やかになりますように。



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