わたしたちの心は、
いつもどこかへ行こうとしています。
まだ来ていない未来を思い、終わったはずの過去を引きずり、
目の前のことに集中したいのに、思考は勝手に別の場所へ旅をしてしまう。
気づけば、心がいくつにも分かれてしまっている。
仕事をしているときも、「このままでいいのかな」と不安が顔を出し、
家でくつろいでいても、「もっと頑張らなきゃ」と焦りが胸を締めつける。
わたしたちは、“いまここ”にいるようで、
ほんとうの意味では、ここにはいないのかもしれません。
一心とは、“心がひとつ”になること
仏教には「一心(いっしん)」という言葉があります。
これは、たったひとつの心を持つこと…
というよりも、
心を散らさない
という在り方を指しています。
『般若心経』には直接「一心」という語は出てきませんが、
その根底には心をひとつに保つ智慧が流れています。
たとえば、
「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんい)」という一節があります。
これは「見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・思う」など、
あらゆる感覚や心の働きにとらわれない、という意味です。
わたしたちは、
五感を通して世界を感じ、
それに反応しながら生きています。
けれど、
その反応があまりにも強くなると、心はすぐに引きずられてしまうんです。
「こうあるべき」「こう見られたい」
そんな思考が頭の中で交錯し、ひとつの静けさを見失ってしまうのです。
「一心」とは、その散らばった心をもう一度、
ひとつの静けさに戻していくこと。
嵐のように波立つ水面が、
少しずつ澄んでいくように心が静まるとき、
わたしたちはようやく“いま”に帰ってこれるのです。
”いま”に戻る、小さな練習
たとえば、朝。
目を覚ました瞬間に、
今日の予定や、やるべきことが頭に浮かぶ。
けれど、ほんの数秒だけでいいので、
「いま、息をしている」ということに気づいてみてください。
吸って、吐いて…
それだけのことに、心を置いてみる。
すると、
外の音や光がやわらかく感じられ、
少しだけ世界が広がっていくように思えます。
これが「一心」の第一歩です。
心を無理にコントロールしようとせず、
ただ、今の瞬間に“気づく”。
思考や感情を敵にしないで、
「あ、また考えてるな」とやさしく見守る。
そんな姿勢こそ、
仏教が説く“瞑想”や“禅”の核心にあります。
『般若心経』が伝える「空(くう)」もまた、
この気づきと深くつながっています。
「空」とは、“何もない”という意味ではなく、
“すべてが移り変わる”という真実のこと。
だから、
どんなに心が揺れても、
それもまた「変わりゆくもの」だと気づけば、
静けさは自然と戻ってきます。
一心不乱という言葉の誤解
わたしたちは「一心不乱(いっしんふらん)」という言葉を聞くと、
何かに熱中し、周りが見えなくなるほど集中する、
そんなイメージを持ちます。
けれど仏教における「一心不乱」は、
“力むこと”ではなく実は、“ほどけること”に近いんです。
たとえば花が咲くとき、
花は特段、頑張って咲いてはいませんよね。
ただ、そのときが来たから、咲く。
太陽の光や雨、風…
すべてが整ったから、自然に開く。
「一心不乱」とは、
そんな自然な集中のことを言うのです。
「こうしよう」「頑張らなきゃ」ではなく、
心が今この瞬間に溶け込んでいくような集中。
そこに”我(が)”はありません。
ただ、“生きているという事実”だけがあるのです。
心がひとつになるとき
たとえば道を歩いていてふと、
風の匂いを感じた瞬間。
コーヒーを淹れているとき、
湯気が立ちのぼるのを見つめているとき。
ほんの一瞬、何も考えていないのに、
満たされている。
そんな瞬間が、「一心」の静けさです。
その静けさは何かを手に入れたからではなく、
“いま”をそのまま受け入れたから生まれてくるものです。
過去でも未来でもない、
たったいま、この瞬間に心があるとき…そこに、安らぎがあります。
一心は、誰の中にもある
『般若心経』の最後に登場する言葉、「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)」には、
“迷いを越えていく”という祈りが込められています。
この“越えていく”という力は、
誰かが与えてくれるものではありません。
わたしたちが自分の中の静けさに気づいたとき、
実はすでにそこにあるものなのです。
「一心」とは、
特別な修行の果てに得られる境地ではなく、
どんな人の中にも眠っている“自然の心”
忙しい日々の中でふと立ち止まり、深く息を吸う。
その瞬間、
わたしたちはもう「一心」に帰っているのです。
次回予告:
第6話では「無常」という言葉を通して、
“変わりゆくことの中にある安らぎ”を見つめていきます。
失うことを恐れず、
変化とともに生きるための仏教の知恵をお届けします。


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